本日、10月21日は「あかりの日」です。1879年のこの日、アメリカの発明王トーマス・エジソンが、日本の竹を使って実用的な白熱電球を完成させたことに由来します。
普段、スイッチ一つでつく「あかり」ですが、その誕生には、海を越えた日本の素材が深く関わっていました。今回は、電気のあかりが生まれるまでの暮らしと、エジソンと日本の竹にまつわる奇跡の物語を振り返ります。
電気がない時代の「あかり」の記憶と苦労
エジソンの電球が普及する前の日本の夜は、今からは想像もつかないほど暗く、夜間の活動は制約されていました。日本の夜を照らしていたのは、主に行灯や灯台といった油を使った照明です。
行灯の燃料は、植物や動物から採れる「油」でした。
- 高級な植物油: 菜種油(なたねあぶら)やごま油などの植物油は、比較的明るく、においも少ないため、上層階級や遊郭、神社仏閣の灯明として使われました。
- 庶民の魚油: しかし、植物油は当時、米の数倍もの価格がする超高級品でした。そのため、庶民は主に魚油、特に安価なイワシの油を使っていました。
この魚油は、菜種油の半値ほどで買えたと言われる安価な油でしたが、燃える時に生臭いにおいと大量の煤が出るのが難点でした。明かりは豆電球ほどの明るさで、夜に何かをするにも、目を凝らす必要がありました。夜は早く寝るのが当たり前で、夜更かしは油代の無駄、「もったいない」ことだったのです。
エジソンと日本の竹:奇跡のフィラメント物語
そんな暗い夜を一変させたのが、トーマス・エジソンの白熱電球です。彼は、長時間光り続ける「フィラメント」の素材を見つけることに全力を注ぎました。木綿糸や金属など、6000種類もの素材を試すも、すぐに焼き切れるばかりで、発明は壁にぶつかっていました。
運命の出会いは、意外なところから訪れます。エジソンは、偶然机の上に置いてあった日本の扇子の竹に目をつけました。これを炭化させて試したところ、なんと200時間もの点灯に成功したのです。
「竹だ!これこそ究極の素材だ!」と確信したエジソンは、10万ドル(当時の巨額)を投じて、世界中に「竹採りハンター」を派遣しました。そして、その一人がたどり着いたのが、当時の首相・伊藤博文らの助言を経て見つけ出した、京都・石清水八幡宮周辺に自生する「八幡竹」でした。
この八幡竹は、繊維が太く丈夫で、焼き切れにくいという特性を持ち、実験では1200時間以上の連続点灯を記録しました。こうして八幡竹は「八幡竹」の名でエジソン電灯会社に大量に輸出され、タングステン線が登場する1894年までの約10年間、世界中のあかりを照らし続けました。遠いアメリカの発明に、日本の竹が貢献したという、何とも誇らしい物語です。
電気のあかりが変えた日本人の夜の生活
明るく、安全で、においも煤も出ない電気の普及は、日本の生活を一変させる「生活革命」でした。
- 時間の自由: 夜間の工場稼働や、夜間学校での学習が可能になり、社会全体の生産性や教育水準の向上に貢献しました。
- 家庭の豊かさ: 家庭では、家族が夜遅くまで同じ空間で過ごせるようになり、読書や裁縫、団らんの時間が劇的に増加しました。
- 街の安全と文化: 街路灯が灯り、夜の移動が安全になったことで、夜間の商業活動が活発化しました。劇場や寄席など、夜の娯楽文化も大きく発展し、人々の暮らしはより豊かに彩られました。
エジソンの発明と日本の竹の力が、単なる照明を超えて、社会の構造と文化、そして私たちの「時間」そのものを豊かに変えたのです。
電気のあかりは私たちに多くの恩恵をもたらしましたが、その使い方を誤ると、現代の暮らしならではの危険につながります。後編では、現代の照明の進化と、特にシニア世代の家庭内で多発する「あかり」による転倒事故を防ぐための具体的な安全対策について、詳しく見ていきます。






