皆さん、こんにちは。今回の旅は、東海道五十三次の中でも、ちょっと変わった場所から始めましょう。江戸の日本橋を出発して、42番目の宿場、ここ桑名です。目の前には広大な海が広がっていて、東海道はここで陸路から海路に変わります。
なぜ、陸路をそのまま行かなかったのか。その答えは、この土地の地形にあります。ここ桑名には、日本でも有数の大河、木曽川、長良川、そして揖斐川の三つの川が合流します。これを木曽三川(きそさんせん)と呼びます。江戸時代、これほど幅広く、流れの速い大河に橋を架けることは困難でした。

▲AIによる生成(木曽三川のイメージ)
そこで、徳川幕府は、陸路を諦め、海を渡ることを決めました。それが、「七里の渡し」です。宮宿(現在の名古屋市熱田区)から、約7里(約28キロメートル)の海上を船で渡り、ここ桑名にたどり着くという、東海道で唯一の海上ルートが誕生しました。

この海上ルートを運航していたのは、大小様々な渡し船でした。多いものでは数十人が乗り込める船もあり、風や潮の流れを読みながら、およそ4時間かけて航海していました。穏やかな日ばかりではなく、時化て波が高くなることもあり、船に弱い者にとっては難所だったようです。乗船賃は時代によって変動しますが、例えば18世紀初頭には、旅人1人につき45文(現代の価値で約1,000円〜1,200円)程度だったとされています。
この渡し船には、多様な人々が乗り合わせました。公務で江戸と京を往復する武士や、商売で各地を巡る商人、そして、お伊勢参りや観光を楽しむ庶民まで、様々な目的を持つ人々がいました。江戸時代後期には女性の旅も珍しくなく、水洗トイレのない船旅で苦労しながらも、旅を続けたのです。
この決断には、軍事・経済的な側面がありました。海を渡る交通路を幕府が管理することで、物資や人の流れを掌握することができたのです。そのため、幕府は信頼のおける家臣、松平氏を藩主として桑名に据え、この重要な地を治めさせました。松平氏は徳川将軍家と血縁関係にあり、この事実が、桑名藩の歴史を特別なものにしました。






