(お電話受付時間/9:00~18:00)0120-802-303
Machi Guide
街ガイド
2025[Thu]
07.10

第1回:松阪歴史探訪記 ~紐解く城と武士と豪商の物語~

紀州街道伊勢路歴史御城番屋敷松阪城



松阪の市役所等がある中心部に足を踏み入れますと、まず目に飛び込んでくるのは、壮大な石垣が残る松阪城跡です。かつてこの地を治め、城を築いた人々は、どのような想いを抱き、どのような物語を紡いできたのでしょうか。なぜこの場所に城が築かれ、その歴史が現代にどう繋がっているのか、その謎を解き明かす旅に一緒に出かけましょう。



 松阪城の築城秘話

松阪城は、1588年(天正16年)に蒲生氏郷によって築かれました 。氏郷は、それまでの拠点であった松ヶ島城から約4km南に位置する四五百森(よいほのもり)という小高い丘に新たな城を築くことを決意しました。築城にはおよそ3年の歳月が費やされ、急を要する部分には松ヶ島城から資材が転用されたと伝えられています 。  

蒲生氏郷は、単に武勇に秀でた武将というだけでなく、和歌や茶の湯を嗜む文化人としての素養も持ち合わせていました 。その高い美意識は、松阪城の石垣にも色濃く反映されていると、建築史家の内藤昌氏も「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている」と絶賛しています 。氏郷が織田信長の安土城築城にも関わっていた経験が、松阪城の石垣作りにも活かされたと考えられます 。

氏郷の先見性は、城の築造だけに留まりませんでした。彼は城下町の整備も同時に進め、織田信長の「楽市楽座」を手本とした政策を導入しました 。これにより、多くの豪商が松阪に誘致され、城下町は飛躍的に発展しました。それまで松ヶ島城下を通っていた伊勢街道を松阪城下を通るように移設し、職人町通り、魚町通り、大手通り、新町通といった通りを計画的に整備したことは、商業発展に大きく貢献しました 。このように、氏郷が単に軍事拠点としての城を築いただけでなく、経済的な繁栄も視野に入れた都市計画家であったことがうかがえます。。  

石垣に秘められた職人の技

現在の松阪城跡で最も目を引くのは、その豪壮な石垣です 。これらの石垣は、石積みの専門集団である「穴太衆」(あのうしゅう)によって築かれ、彼らの卓越した職人技術を今に伝えています 。建築史家がその「美観」と「強固さ」を称賛するように、松阪城の石垣は単なる防御施設を超えた芸術的な価値を持っています 。  



築城から約100年後の1591年(天正19年)には、豊臣秀吉の命により改修が行われ、その際に東北最古と見られる古式穴太積の石垣遺構が組まれたとされています 。このように、松阪城の石垣は、戦国末期から江戸初期にかけての日本の築城技術が、実用性だけでなく、耐久性と美学を兼ね備えた高度なレベルに達していたことの証です。現存する石垣は、当時の職人の技術力と、それを評価し取り入れた武将の審美眼の結晶であり、歴史的遺産としての深い価値を今に伝えています。

 

松阪城は、1871年(明治4年)の廃藩置県によってその役割を終え、1877年(明治10年)には火災で二の丸御殿が焼失するなど、現存する建造物はほとんどありません 。しかし、穴太衆の技術によって築かれた石垣だけが時代を超えて残り、当時の面影を色濃く残しています。これは、石垣が城の「記憶」を最も鮮明に伝える存在であり、火災や廃城という運命を辿りながらも、その堅牢さと重要性が際立っていることを示しています。石垣は、単なる構成要素ではなく、城の生命線であったと言えるでしょう。

廃城から国の史跡へ

松阪城は、明治維新という大きな時代の転換期を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となりました 。その後、1877年(明治10年)には火災によって二の丸御殿が焼失し、現存する建物は石垣などを除いてほとんどありません 。  

しかし、その歴史的価値は現代において再評価され、2011年(平成23年)には国の史跡に指定されました 。かつては実用的な要塞であったものが、時を経て、国民共通の歴史的記憶として保存される対象となったのです。  



シニア向け住宅アドバイザー ライター:添田 浩司

安心安全な住まい、日々の健康や、自分らしい暮らしに役立つ情報、地域の話題、歴史などを、様々な視点から配信していきます。

街ガイドのエリア
アーカイブ