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Machi Guide
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2025[Thu]
07.03

第2回 松阪になぜ紀州藩の「飛び地」が?~お伊勢参りの大動脈と街道の賑わい

紀州街道伊勢路歴史


皆さん、こんにちは!ブラタモリ風旧長谷川治郎兵衛家巡り、第2回です。今回は、旧長谷川治郎兵衛家の歴史を紐解く上で最も重要なキーワードの一つ、「紀州藩の飛び地」について深掘りしていきましょう。松阪は伊勢国(現在の三重県)のほぼ中央に位置するのに、なぜ現在の和歌山県を本拠とする紀州藩の領地がここにあったのでしょうか?

その答えは、江戸時代に一大ブームとなった「お伊勢参り」と、それを支えた「紀州街道」の存在にあります。

国民的大イベント「お伊勢参り」の熱狂

江戸時代、伊勢神宮への参拝は、老若男女、身分の区別なく多くの人々にとって一生に一度は叶えたいと願う「夢」でした。特に、十数年に一度行われる「おかげ参り」の年には、普段の何倍、何十倍もの人々が伊勢を目指しました。例えば、宝暦13年(1763年)のおかげ参りでは、約250万人もの人々が伊勢を訪れたと記録されています。これは当時の日本の人口の約1割に相当する途方もない数字です。

通常期でも、伊勢街道(紀州街道を含む伊勢神宮へ向かう主要街道)には、日に数百人から千人単位の旅人が通行していたと言われています。例えば、江戸から伊勢までの道のりを考えると、毎日数千人が各地の宿場町を行き交っていたとしても不思議ではありません。特に、宿場町である松阪では、宿泊客だけでも一日あたり数百人、多い時には千人規模にのぼることも珍しくありませんでした。松阪の宿屋は常に満室で、旅籠に入りきらない人々は民家に分宿させてもらう「間借り」で夜を過ごすほどだったのです。街道は活気に満ち、人々が行き交う音、売り子の声、そして旅の途中の歌声まで聞こえてきそうな賑わいだったことでしょう。

紀州藩の「戦略的飛び地」の設置

このようなお伊勢参りの大動脈であった伊勢街道において、紀州藩は非常に重要な役割を担っていました。紀州藩は徳川御三家の一つであり、将軍家との結びつきも深く、伊勢神宮との関係も密接でした。また、紀州藩主が江戸と紀州を往復する「参勤交代」の際も、伊勢を通過する必要がありました。

そこで紀州藩は、伊勢国の中にいくつかの飛び地を設けるという、非常に戦略的な策をとりました。これは単に領地を広げるという目的だけでなく、以下のような重要な意味がありました。

  1. 街道の治安維持: 多くの旅人が通る街道では、盗賊の発生やトラブルも少なくありませんでした。飛び地を持つことで、自藩の奉行所を設置し、治安維持に責任を持つことができました。旅人の安全を守ることは、藩の権威を示す上でも重要でした。
  2. 旅人の保護と利便性の向上: 飛び地内では、紀州藩の役人が常駐し、旅人の便宜を図ることができました。宿泊施設の確保、食料の補給、病人の手当てなど、旅の途中で起こる様々な困りごとに対応することで、お伊勢参りの円滑な進行を支えました。
  3. 参勤交代の拠点: 紀州藩主の参勤交代の際、飛び地は重要な中継地点となりました。物資の貯蔵庫や、藩主一行の休憩・宿泊施設としても利用され、スムーズな移動を可能にしました。
  4. 情報収集の拠点: 街道を行き交う様々な人々から、世情や他藩の情報などを収集する拠点としての役割も担っていました。これは、幕府や他藩との関係を築く上で非常に有益でした。

松阪は、紀州と伊勢、そして江戸を結ぶ紀州街道の要衝に位置していたため、これらの戦略的飛び地の中でも特に重要な場所として位置づけられました。旧長谷川治郎兵衛家が居を構えるこの地域は、まさにその紀州藩の戦略的拠点であり、街道の賑わいを肌で感じられる最前線だったのです。

紀州藩が松阪に飛び地を設けたことは、単なる領地の拡大にとどまらず、お伊勢参りを支え、街道文化を育むという、江戸時代の壮大な国家プロジェクトの一環だったと言えるでしょう。

次回は、この紀州藩の飛び地で、長谷川治郎兵衛家がどのような役割を担い、どのようにして財を成していったのか、その秘密に迫っていきたいと思います。お楽しみに!

シニア向け住宅アドバイザー ライター:添田 浩司

宅地建物取引士、管理業務主任者、ビル経営管理士といった国家資格を有する現役の不動産コンサルタントです。安心安全な住まい、日々の健康や、自分らしい暮らしに役立つ情報、地域の話題などを、様々な視点から配信していきます。

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