
こんにちは! 伊賀城の奥深い魅力に迫る旅、前回は天守なき名城の謎と、その圧倒的な高石垣の迫力についてご紹介しました。今回は、いよいよその高石垣がどのように築かれたのか、そして藤堂高虎がなぜ、これほどまでの巨大な石垣にこだわったのか、その築城術の秘密と高虎の思惑に迫ります。当時の人々の知恵と努力を想像しながら見ていきましょう。
奇跡の石積み技術「野面積み」と「打込接」
伊賀城の高石垣を見て、「これ、どうやって積んだの?」と疑問に思った方も多いのではないでしょうか。当時の築城技術は、現代の重機がない時代に、信じられないほどの精度と強度を誇っていました。
主に使われたのは、大きく分けて二つの石積み技術です。
- 野面積み(のづらづみ): これは、自然の石をほとんど加工せずにそのまま積んでいく方法です。一見すると無造作に見えますが、石と石の間に小さな間詰石(まづめいし)を挟み込むことで、互いにがっちりとかみ合い、高い安定性を生み出します。伊賀城の初期の石垣に見られます。
- 打込接(うちこみはぎ): そして、伊賀城の高石垣の主要な部分に使われたのが、この打込接です。石の表面をある程度加工して平らにし、隙間なく積み上げていく方法です。石と石の接合面が密になるため、より頑丈で美しい石垣を築くことができます。
伊賀城の高石垣は、切り立った崖のような傾斜を持つことが特徴です。これは、単に石を積み上げるだけでなく、石垣の裏側に裏込石(うらごめいし)と呼ばれる栗石を大量に詰め込み、土圧を分散させるという高度な技術が用いられていたからです。さらに、石垣の勾配(こうばい)を絶妙に調整することで、上からかかる力を効率的に分散させ、崩れにくい構造を作り上げていました。まさに、先人たちの知恵と経験の結晶と言えるでしょう。
藤堂高虎、高石垣に込めた「執念」
さて、これほどまでの高石垣を、なぜ藤堂高虎は伊賀の地に築こうとしたのでしょうか?
伊賀は、その名の通り「伊賀流忍者」で知られるように、古くから独立心が強く、戦乱の際にはたびたび反乱が起きた土地です。高虎は、徳川家康の命を受け、この伊賀を完全に掌握するという重大な任務を負っていました。
高虎が高石垣に込めた思いは、単なる防御だけではなかったと考えられています。
- 威厳の象徴: 圧倒的な高さと堅牢さを持つ石垣は、城主の権威と力を視覚的に示すものでした。伊賀の住民に対し、「私たちはこれほど強固な城を築けるのだ」という絶対的な支配力を見せつけることで、反乱の芽を摘もうとしたのでしょう。
- 心理的効果: 敵が攻めてきたとしても、この高石垣を前にすれば、その圧倒的なスケールに戦意を喪失したかもしれません。物理的な防御だけでなく、精神的な抑止力としての役割も大きかったのです。
- 最新技術の誇示: 高虎は、築城のプロフェッショナルとして、常に最新かつ最高の技術を追求していました。この高石垣は、まさに当時の最先端技術の粋を集めたものであり、自身の築城家としての力量を内外に示す場でもあったと言えるでしょう。
つまり、伊賀城の高石垣は、単なる防御施設ではなく、高虎が伊賀という地を治めるための政治的・軍事的メッセージが込められた、壮大なプロジェクトだったのです。
天守なき城、次なる謎へ
高虎の並々ならぬ執念によって築き上げられた伊賀城の高石垣。しかし、これほどまでに堅牢な土台を築きながら、なぜ当初の天守は完成を見なかったのでしょうか? そして、現在の天守はどのような経緯で再建されたのでしょうか?
次回は、いよいよシリーズ最終回。伊賀城の天守が失われた謎と、戦国時代から現代に至るまでの城の歴史、そして現代に伝えたい高石垣の魅力について、さらに深く掘り下げていきます。次回もお楽しみに!






