さて、少し下世話な話ですが、御城番屋敷に住んでいた侍たちは、一体どれくらいの給料をもらっていたのでしょうか?今回の街ガイドでは、「40石」という謎めいた単位を、現代の私たちにも理解できるよう、紐解いていきたいと思います。
「1石」ってどれくらい?
江戸時代の武士の給料は「石高(こくだか)」で表されました。この「石」という単位は、成人男性が1年間に食べる米の量とされ、約150kgに相当します 。
米俵との関係については諸説あり、1石は2.5俵(1俵60kgの場合)とされることが多いです。
小判との関係では、江戸時代を通じてほぼ金一両で米一石(150kg)を買うことができたとされています 。この「米本位制」とも言える経済システムは、現代の貨幣経済とは根本的に異なり、米の価値が当時の経済の根幹をなしていたことを示しています。
現代の価値に換算すると、米の価格で考えると1石は約150,000円となるのではないでしょうか?
40石の俸禄でどんな暮らしができたのか?
御城番屋敷に住んでいた紀州藩士は、それぞれ「40石取り」であったとされています 。
前述の「1石」の現代価値(仮に15万円)を基に計算すると、40石の俸禄は年間約600万円に相当します。江戸時代の武士の俸禄は、米の現物支給が基本であり、そこから家族の生活費、家賃(持ち家でなければ)、衣食住の費用、そして武士としての体面を保つための交際費などが賄われました。
40石という俸禄は固定されていても、その「実質的な購買力」は、江戸時代を通じて米価の変動や物価高騰によって大きく左右されたはずです。下級武士の例では「生活は決して楽ではなかった」と記されており 、また、御家人の中には「身の回りの必要経費や物価高に悩まされ」、内職を行ったり、御家人株を売りに出す例もあったとされています 。このように、額面だけでは見えない生活の厳しさがあったのかもしれません。
40石という俸禄は、当時の武士階級の中でどのような位置づけだったのでしょうか。例えば、下級御家人が年収160万円程度、新選組の平隊士が年収240万円程度とされている例と比較すると 、40石は、比較的安定した、あるいは中堅クラスの武士の収入であったと推測できます。これは、御城番屋敷の侍たちが、単なる下級兵士ではなく、松阪城の警護という重要な任務を担う、ある程度の地位と責任を持つ存在であったことを示唆しています。
江戸時代の侍の年収は、現代のどのランクのサラリーマンに相当する?
40石の俸禄は、収入という面だけで考えると、現代の年収600万円の範囲と考えると、現代のサラリーマンで言えば、中堅、あるいは一部の管理職クラスに相当する可能性があると言えるでしょう。
ただし、現代のサラリーマンと異なり、武士は家禄(給与)から家族の生活費だけでなく、家臣の扶持米、武具の手入れ費用、冠婚葬祭費など、多くの経費を自己負担する必要がありました。現代のサラリーマンが享受する社会保障や福利厚生、医療費、教育費などの恩恵は、当時の武士にはありませんでした。
当時は現代のように、お金をたくさん使うものや、場所等が少なかったと思いますので、相当な高収入の部類に入る方だったと推測されます。






