皆さん、こんにちは!ブラタモリ風旧長谷川治郎兵衛家巡り、第3回です。前回は、紀州藩がなぜ松阪に飛び地を設けたのか、その背景にあるお伊勢参りの大動脈としての紀州街道の賑わいについて探りました。今回は、その飛び地で重要な役割を担っていた「長谷川治郎兵衛家」にスポットを当ててみましょう。彼らは一体どんな仕事をしていたのでしょうか?

長谷川治郎兵衛家は代々、紀州藩の「御茶人(おちゃじん)」という役職を務めていました。これは単にお茶を飲む人、というイメージとは少し違います。彼らは、お茶の栽培、加工、流通、さらには藩への献上までを一手に管理する、非常に重要な役職だったのです。
紀州藩にとっての「お茶」の価値と御茶人の役割
江戸時代において、お茶は単なる嗜好品ではありませんでした。その薬効が信じられ、病気の治療や健康維持のために珍重されました。また、将軍家や朝廷への献上品としても用いられ、藩の外交や威信を示す上でも重要な品だったのです。特に、徳川御三家の一つである紀州藩にとって、将軍家への献上茶は、藩の格式と信頼を示す上で極めて重要な意味を持っていました。
紀州藩は、このようなお茶の重要性を認識し、藩の財源を確保するためにも、良質なお茶の生産に力を入れていました。松阪の飛び地は、温暖な気候と豊かな土壌に恵まれ、お茶の栽培に適していました。長谷川治郎兵衛家は、この地で代々お茶の栽培技術を磨き、高品質なお茶を生産していました。彼らが栽培したお茶は、紀州藩を通じて江戸へと運ばれ、将軍家や大名たちに献上されたり、高級品として販売されたりしたのです。旧長谷川治郎兵衛家の敷地には、お茶を管理するための茶室や、茶の木を育てるための畑が広がり、日々お茶の香りが漂っていたことでしょう。

御茶人としての長谷川治郎兵衛家は、お茶の生産管理だけでなく、紀州藩の公式な役職を担う家として、以下のような多岐にわたる役割も果たしていました。
- 役人の往来と宿泊の拠点: 紀州藩の役人や、江戸との連絡役が松阪を訪れる際、旧長谷川治郎兵衛家は彼らの宿泊や打ち合わせの場として利用されました。重要な情報がここで交換され、藩の政策が練られることもあったかもしれません。
- 街道を行き交う人々への対応: お伊勢参りの人々や、商人が街道を行き交う中、旧長谷川治郎兵衛家は時には休息の場を提供し、時には紀州藩の顔として彼らと接することもあったでしょう。彼らの話から世情を探る役割も担っていたかもしれません。
このように、旧長谷川治郎兵衛家は、紀州藩の飛び地における政治、経済、そして文化の拠点の一つとして機能していました。
長谷川治郎兵衛家と「松阪木綿」誕生の背景
しかし、長谷川治郎兵衛家がこれほどまでに繁栄した理由は、お茶の御茶人としての役割だけではありませんでした。彼らは、後に全国を席巻することになる「松阪木綿」の製造・販売にも深く関わり、そのビジネスで大きな成功を収めていたのです。

松阪は、江戸時代初期から木綿の生産が盛んでした。この地の風土が綿花の栽培に適していたこと、そして農閑期の副業として農民が木綿織りに従事していたことが背景にあります。しかし、単に生産が盛んだっただけでは、これほどの大流行には繋がりません。松阪木綿が全国的なブランドとして確立された背景には、いくつかの重要な要素がありました。
一つは、松阪商人の活躍です。彼らは、江戸へ積極的に進出し、店を構え、販路を拡大していきました。松阪商人は、顧客のニーズを的確に捉え、品質の良い商品を適正な価格で提供することで信頼を勝ち得ていきました。特に、現金取引を基本とし、顧客との信頼関係を重視する彼らの商法は、当時の商業界で注目を集めました。
そしてもう一つ、非常に大きな影響を与えたのが、幕府による「倹約令」でした。これについては、次回詳しく掘り下げていきます。長谷川治郎兵衛家は、御茶人として藩に貢献しつつ、松阪木綿のビジネスでも成功を収め、その財力を築いていったのです。 次回、第4回では、松阪木綿がなぜあれほどまでに全国で大流行したのか、その理由を「倹約令」という視点から深掘りしていきます。