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Machi Guide
街ガイド
2025[Fri]
08.01

第2回:伊勢参りの拠点、門前町の賑わいと日本三大観音の謎

歴史津観音



皆様、こんにちは!

今回は、三重県津市にひっそりと佇む津観音を舞台に、かつての賑わいの理由を求めて、全3回シリーズの第2回目お送りします。



前回は、伊勢参りという大イベントの中で、津観音が果たした重要な役割についてお話しました。今回はさらに深掘りして、当時の津観音周辺の賑わいや、津観音が持つ格式高い「日本三大観音」としての顔、そしてそもそも「観音様」とはどのような存在なのか、その遥かなる発祥と伝来の歴史まで、じっくりと探っていきましょう!

津観音門前町の賑わい

江戸時代、伊勢参りの旅人にとって、津観音は文字通り「伊勢路への玄関口」であり、重要な中継地点でした。長旅で疲れた体を癒すため、津の街には多くの旅籠(旅館)が軒を連ね、活気に満ちていたことでしょう。


具体的な津観音周辺の旅籠の数は定かではありませんが、伊勢参りの主要ルートの一つであった「伊勢別街道」の宿場町を例挙げてみましょう。伊勢別街道は、東海道五十三次の関宿、すなわち江戸から数えて47番目の宿場から分岐し、伊勢へと向かう重要な道でしたこの伊勢別街道の最初の宿場である椋本では、幕末には20軒以上の旅籠があったと記録されており、伊勢参りの旅人で大いに賑わっていたことが伺えます。

津は城下町でもあり、港も栄えていたことを考えると、それに匹敵するか、あるいはそれ以上の数の宿泊施設が存在し、多くの旅人が行き交っていたと想像できます。残念ながら、当時の津観音周辺の正確な宿泊者数を記した資料は探せていないのですが、伊勢参りの大ブームを考えれば、毎日多くの人々が津に滞在し、津観音へと足を運んでいたことは間違いありません。

旅人たちは津観音で参拝を済ませた後、門前町の茶屋で一息ついたり、地元の名産品を土産に求めたりと、旅の楽しみを満喫していたはずです。その賑わいは、現在の静かな津観音からは想像もできないほどだったでしょう。

日本三大観音としての津観音

さて、津観音はただの賑やかな門前寺というだけではありません。実は、東京の浅草寺(浅草観音、名古屋の大須観音と並んで、「日本三大観音」の一つに数えられる格式高いお寺なのです。

「津に参らねば片参り」という言葉が残されていることからも、伊勢参りにおいて津観音への参拝がいかに重要視されていたかが伺えます。これらの三大観音に共通しているのは、いずれも庶民信仰の中心として栄え、多くの人々に親しまれてきたという点です。津観音もまた、その創建は和銅2年(709年)と伝えられるほどの長い歴史を持ち、人々の心の拠り所として大切にされてきました。

そもそも「観音」とは? その遥かなる発祥と伝来の道

「観音様」「観音さま」と私たちは親しみを込めて呼びますが、そもそも「観音」とはどのような存在なのでしょうか? そして、どこから日本にやってきたのでしょう?

正式には「観音菩薩」、「観世音菩薩」、「観自在菩薩」などと呼ばれます。その名の通り、「観」は「見る、観察する」という意味、「音」は「世の中のすべての音(声)」を意味します。つまり、観音様とは「世の中の人々の苦しみの声を聞き、その声に応じて救いの手を差し伸べてくださる慈悲深い仏様」なのです。

観音様のルーツは、なんと古代インドに遡ります。インドでは「アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)」という男性の菩薩として信仰されていました。このアヴァローキテーシュヴァラが、仏教の伝播とともに中央アジアを経て中国へと伝わります。

中国では「観音」または「観世音」と呼ばれ、時代とともにその姿は変化し、しばしば女性的な姿で描かれるようになりました。これは、より親しみやすく、慈悲深さを表現するためだったと言われています。

そして、この中国で形作られた観音信仰が、遣唐使や遣隋使などを通じて日本へと伝えられ、独自の発展を遂げました。日本では、古くから人々の生活に深く根差し、津観音のような由緒ある寺院から、身近な道端のお地蔵さんのように親しまれる存在となったのです。

観音様は、人々の苦しみを救うために、千手観音、十一面観音、馬頭観音など、三十三の姿変身すると言われています。これは、あらゆる人々の状況に合わせて最適な形で救済の手を差し伸べる、という広大な慈悲の心の表れなのです。津観音のご本尊も、そうした観音様の一つの姿である「聖観世音菩薩」をお祀りしています。




シニア向け住宅アドバイザー ライター:添田 浩司

安心安全な住まい、日々の健康や、自分らしい暮らしに役立つ情報、地域の話題などを、様々な視点から配信していきます。

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