皆さん、こんにちは。
さあ、今日は三重県桑名市の歴史探訪、新たな旅の始まりです。最初に訪れるのは、桑名市民の心のよりどころ、桑名宗社。この神社の正式な呼び名が、実は「桑名宗社」と「春日神社」の二つあることに、少し戸惑っていませんか?私はとまどいました。
そんなことを考えながら、見上げるほどに立派な楼門をくぐると、清々しい空気がすっと頬をなでていきました。

多くの人々が初詣や祭り、七五三で訪れるこの場所は、1900年を超える歴史の重みが静かに、深く漂っています。
ブラタモリ風にこの場所を掘り下げるなら、まずはこの神社の「名前」から紐解いていきましょう。なぜ、正式名称が二つもあるのでしょうか?

実は、この境内には二つの神社が鎮座しています。一つは、古くからこの地の地主神として信仰されてきた神様をお祀りする「桑名神社」。そしてもう一つは、奈良の春日大社から分霊された神様をお祀りする「中臣神社」です。

ここで少し、皆さんが疑問に思っているであろう「神様を分霊する」という話を、掘り下げてみましょう。
「分霊」とは、本社の神様からご神霊を分け、新しい場所にお迎えして祀ることを言います。これは、神様の御魂が無限に分けられる、という神道の考え方に基づいています。
例えるなら、本社の神様が「本社」、分霊された神様が「支店」です。本社の神様の力が薄れることはなく、新しい場所でも同じご利益を授けてくださる、と考えられているんですね。この「分霊」によって、神様の御加護を遠い土地でも受けられるようになり、全国に同じ名前の神社が広がっていったのです。ちなみに、春日大社から分霊された神社は、全国に数千社あると言われています。・・・・さすがに分けすぎでは・・・と思ってしまいますね。
つまり、桑名市の中臣神社は、奈良の春日大社の「支店」として、「藤原氏の氏神様である春日の神様を、この新しい土地の守り神としてお迎えする」という目的で創建されました。
桑名神社と中臣神社の二つの神社を総称して、「桑名宗社」と呼んでいるんです。では、「春日神社」という通称はどこから来たのでしょうか?それは、奈良の春日大社から神様が分霊された「中臣神社」があまりにも有名だったため、いつしか人々が二つの神社を合わせて「春日神社」と呼ぶようになった、というわけです。

この二つの異なる神様が、一つの拝殿で共に祀られているのは、全国的にも非常に珍しい造りです。外から来た神様(春日神)が、元々この地にいた神様(伊多賀神)を尊重し、共にこの地を守っていくという、桑名の歴史と文化の融合を象徴しているように感じられます。

さて、皆さんが最初にくぐってきた鳥居。実は、あれは非常に珍しい「青銅製」の鳥居です。建立されたのは寛文7年(1667年)と記録に残っており、桑名藩主・松平定重公によって寄進されました。実に350年以上の時を経て、今もなお、この地に立ち続けているんです。この鳥居は、木材とは違い腐食しにくいため、この地域の湿度や風雨にも耐え、長い歴史を見守ってきました。かつては木造の鳥居だったものが、江戸時代に青銅に変わったことで、藩主のこの神社に対する篤い信仰と、町の繁栄を願う強い思いが込められていることがうかがえます。

さらに、境内へと続く「楼門」にも特別な由緒があります。

この楼門は、その名の通り二階建ての構造をしており、一階部分には随身像が安置され、神様をお守りしています。残念ながら、太平洋戦争の戦火で焼失した後、平成7年(1995年)に再興されたものですが、古くからの資料に基づいて、当時の壮麗な姿が忠実に再現されています。楼門は、単なる門ではなく、神聖な空間と俗世を分ける結界であり、そして祭りの熱狂的な舞台となる、重要な役割を担っています。
そして、この境内を歩いていて、皆さんがまず手を清める手水舎。ここの美しさにも、ぜひ注目してください。

近づいてみると、美しい苔がびっしりと生えています。長い年月を経て育った苔は、この場所の静けさと、変わらぬ時の流れを物語っているようです。そして、この手水舎の屋根を見てみてください。小さな千木と鰹木が載っていますね。これは、神社の本殿にのみ許される特別な装飾なんです。なぜ、この手水舎にまで…?実は、この手水舎は、神様をお迎えし、お清めをする特別な場所であるため、本殿に準じる神聖な建物として建てられている、ということなんです。苔の生えた古びた手水舎に見えて、実は非常に位の高い、由緒ある建物だったんです。
この場所の「地形学」も見ていきましょう。
桑名は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口に位置する、水に恵まれ、同時に洪水にも悩まされてきた土地です。この春日神社がある場所は、周囲よりもわずかに標高が高く、古くから人々が水害を避け、集落を形成しやすい場所でした。
古代の人々にとって、大河の氾濫は神の怒りそのものでした。そのため、この少し高い場所に神を祀り、氾濫を鎮めるための祈りを捧げるのは、ごく自然なことだったのでしょう。春日神社は、単なる信仰の場ではなく、この地域の自然災害と闘い、生き抜くための人々の知恵が詰まった場所だったのです。
この地に確固たる地位を築いたのは、関ヶ原の戦いの後、桑名藩の初代藩主となった本多忠勝です。
忠勝は、桑名城の守護神、そして藩全体の総鎮守として、この神社を篤く保護しました。城下町が整備され、商人が行き交う活気ある町へと発展していく中で、神様は人々の暮らしの中心に深く根付いていきました。
この地を治める上で、古くからの信仰と、新しい武家の信仰を融合させる必要があった。その結果、二つの神が一つになる「桑名宗社」の形が完成したのかもしれません。そして、この神社の祭礼、「桑名石取祭」は、やがてその歴史的価値から、ユネスコ無形文化遺産に登録されることになります。
単なる春日神社ではない。この地に古くからいた神と、新たにやってきた神が力を合わせ、町の歴史を見守ってきた。そして、その文化は今、世界から注目されるほどに成長しました。次回は、この神社が舞台となる、日本一やかましい祭りの秘密に迫ります。どうぞ、お楽しみに!






