松阪は、武士の町であると同時に、日本経済を支えた「豪商の町」でもありました。その代表格が「長谷川家」です。彼らがどのようにして巨万の富を築き、武士である紀州藩とどのような関係を築いていたのか?知られざる経済の裏側を深掘りしたいと思います。

豪商長谷川家の繁栄と江戸での活躍
旧長谷川治郎兵衛家は、魚町一丁目に「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商でした 。彼らは数多い江戸店持ち伊勢商人の中でもいち早く江戸に進出し、大きな成功を収めました 。1675年に3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒もの出店を構える木綿問屋となりました 。

本家三代目の政幸(宗印居士)は、後に店を支配人に任せて郷里松阪へ戻り、本宅から毎日指示の手紙を出していたそうです。そしてこの頃には、長谷川家の資産は一万七千両に達したとされています 。この驚異的な成功の影には、「江戸店持ち」という形態があります。地方の商人が全国規模の経済ネットワークを築き、莫大な富を蓄積できたことを物語っています。

長谷川家には、建物群のみならず、創業以来大切に保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類、商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されています。古文書や商業資料からは、当時の商取引の仕組み、人々の生活、そして経済活動の息吹が感じられ、歴史をよりリアルに、多角的に理解するための貴重な手がかりとなります。
紀州藩と長谷川家の「御為替御用」
紀州藩は、江戸藩邸へ公金を送るため、江戸店持ちの松阪商人に「御為替御用」を命じ、松坂御為替組を結成させました 。長谷川家は6代邦俶の時にこの松坂御為替組に加盟し、7代元美は松坂御為替組上座・五十人扶持を拝命するなど、藩から特権を与えられています。
松坂御為替組は、三井組とともに銀札(紀州藩の紙幣)の発行も命じられるなど、藩の財政において重要な役割を担いました 。紀州藩が長谷川家を含む松阪商人に公金輸送を委ねていたという事実は、武士階級が経済的に商人に依存していたという、封建社会における「共依存」の関係を浮き彫りにします。藩は商人の広範なネットワークと金融知識を必要とし、商人は藩からの特権や信用を得ることでさらなる繁栄を享受しました。
「御為替御用」が単なる現金の運搬ではなく、藩の紙幣である「銀札」の発行にまで関わっていたという事実は、江戸時代の金融システムが現代の想像以上に発達していたことを示しています 。これは、遠隔地への送金や信用創造といった、現代の銀行業務にも通じる機能が、豪商たちの手によって行われていたことを意味します。
武士の町と商人の町が織りなす歴史
松阪には、武士の暮らしを今に伝える「御城番屋敷」と、豪商の繁栄を象徴する「旧長谷川治郎兵衛家」という、対照的ながらも共存してきた歴史的施設が存在します 。これらの施設は、松阪が「武士のまち」と「豪商のまち」という二つの顔を持ち、それぞれが独自の文化と経済を育んできたことを物語っています。






