
六華苑のもう一人の立役者は、英国人建築家、ジョサイア・コンドルです。彼の人生もまた、光と影に満ちたものでした。コンドルは、ロンドン大学で建築を学び、若くして才能を嘱望されていましたが、当時の英国は建築家が飽和状態にあり、なかなか活躍の場を見つけられずにいたのです。そのとき、彼の運命を変える一本の線が、日本へと伸びていました。
コンドルを日本に招いたのは、明治政府でした。政府は、西洋の優れた建築技術を学ぶため、「お雇い外国人」を積極的に招聘していたのです。このプロジェクトを強力に推進したのが、工部大学校の校長であり、工学寮の寮監を務めていた英国人、ヘンリー・ダイアーという人物です。ダイアーは、ロンドンの建築家たちに声をかけ、コンドルの師匠であったウィリアム・バージェスに推薦を依頼しました。バージェスは、自らの才能を受け継ぐコンドルを迷わず推薦したのです。コンドルは、この日本の誘いを、建築家としての新たな挑戦の場だと捉え、24歳の若さで単身日本に渡ることを決意しました。
日本で、コンドルは建築家としての才能を存分に発揮しました。工部大学校で後進の育成に尽力する傍ら、数々の名建築を手がけました。
- 鹿鳴館(ろくめいかん):日本の近代化を世界に示すための、華やかな社交場
- ニコライ堂(にこらいどう):ロシア正教の壮麗な大聖堂
- 岩崎久彌(いわさきひさや)旧邸:三菱財閥を率いた岩崎家の壮大な邸宅
これらの建築は、日本の近代建築の礎を築きました。しかし、異国での生活は、彼に深い孤独と葛藤をもたらしました。彼の作品には、西洋の技術と日本の美意識が複雑に絡み合い、その深い心の影が表現されているかのようです。
そのとき、遠く離れた地方の実業家から、新しい邸宅の設計を依頼したいという話が舞い込んできたのです。この依頼主こそ、二代目・諸戸清六(清吾)でした。この奇跡の出会いを演出したのが、初代清六の事業パートナーでもあり、コンドルの弟子でもあった益田孝です。益田は、三井財閥の創設者の一人であり、茶人としても知られた大人物です。彼は、諸戸家とコンドル、互いの才能が響き合うことを確信し、二人を結びつけました。
益田は、晩年、日本経済の発展を担った実業家としての役割を終え、茶の湯の世界に深く傾倒していきました。茶室を建て、数々の名品を蒐集し、「鈍翁」という雅号で呼ばれるようになったのです。彼が六華苑の設計に関わったのは、まさにその頃です。益田は、単なる建築の仲介役ではありませんでした。彼は、この邸宅に、諸戸家とコンドルという二つの才能を結びつけ、日本がこれから進むべき、和と洋が融合した新しい文化のあり方を示そうとしたのかもしれません。六華苑は、諸戸家の夢とコンドルの才能、そして益田の深い思惑が交差した、まさに奇跡の結晶なのです。







