2月20日。今日は「歌舞伎の日」です。 1607年(慶長12年)の今日、出雲阿国(いずものおくに)という女性が、江戸城で徳川家康や秀忠の前で、初めて「かぶき踊り」を披露したとされる日です。
現代の歌舞伎は伝統芸能ですが、そのルーツは「パンク」や「ロック」のような、常識外れのエネルギーの塊でした。
今日は、阿国や伊達政宗といった「かぶき者」たちの生き様を通して、「なぜ京都の人は、東京(江戸)を少し冷ややかに見るのか?*という、日本の文化的な謎に迫ってみたいと思います。
秀吉の時代 〜「派手」こそが正義だった〜
時計の針を少し戻しましょう。 阿国が登場する少し前、日本は豊臣秀吉という「世界一の派手好き」が支配する、熱狂の時代(安土桃山時代)でした。
この空気を誰よりも吸い込んだのが、仙台の伊達政宗公です。 1591年、一揆扇動の疑いで秀吉に呼び出された際、彼はとんでもないパフォーマンスを見せました。
全身「白装束」をまとい、背中には金箔を貼った「黄金の磔柱(はりつけばしら=処刑用の十字架)」を背負って、京の都を行進したのです。 「疑うなら、この金色の柱で私を処刑してみろ」 命をかけた、究極のブラックジョークです。
これを見た秀吉は激怒するどころか、「お前は本当に食えぬ男だ」と大笑いして許したといいます。 この時代、京や大坂には「個性を爆発させること」を粋とする、自由な空気が流れていました。
阿国の登場 〜時代の徒花(あだばな)〜
そんな熱狂の残り香が漂う1603年頃、京都の四条河原に現れたのが、出雲阿国です。
彼女は、男装をして刀を差し、首からロザリオを下げるという「異形のファッション」で、最新の流行歌に合わせて踊り狂いました。 京の人々は「あいつ、かぶいてるな!」と熱狂しました。
しかし、時代は変わろうとしていました。 関ヶ原の戦いが終わり、天下を握ったのは、あの「徳川家康」だったのです。
家康の時代 〜「野暮」な管理社会の始まり〜
1607年、家康公は江戸城(伏見城説もあり)に阿国を呼び、その踊りを見物しました。 しかし、真面目で質素倹約を旨とする家康公の反応は、冷ややかなものでした。
「このような風紀を乱す踊りは、世のためにならん」
家康公が目指したのは、個性がぶつかり合う乱世ではなく、秩序によって管理された平和な国でした。 その後すぐに、幕府は「女歌舞伎」を禁止します。 阿国は歴史の表舞台から姿を消し、伊達政宗公もまた、派手な野心を隠し、仙台の地で「賢い長老」として生きる道を選びました。
失われた「婆娑羅(ばさら)」の心を求めて
ここで、冒頭の謎に戻ります。 なぜ、京都の人は東京(江戸)を「野暮」だと感じるのか?
それは、信長や秀吉が愛し、阿国が踊った「華やかで、自由で、少し危うい美しさ(婆娑羅・わびさびの対極にあるもの)」を、家康公が徹底的に排除し、管理してしまったからではないでしょうか。
「江戸(東京)は、田舎侍が作った、規律ばかりの面白みのない街や」 そんな京都人の深層心理には、400年前に奪われた「自由への郷愁」があるのかもしれません。
現代のシニア世代の皆様。 私たちは今、家康公が作った平和な社会の延長線上に生きています。 ですが、心の中くらいは、伊達政宗や阿国のように「派手」で「自由」であってもいいのではないでしょうか。
2月20日。今日は、少し派手なスカーフやネクタイを締めてみませんか? それは、管理社会に対する、私たちなりの小さな「かぶき」なのですから。






