3月14日は、1970年(昭和45年)に、前回の日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われた日です。
私事ですが、当時幼稚園の年少だった私は、万博会場の近くに住んでいました。ある日、あの巨大な「太陽の塔」の圧倒的な引力にすっかり魅了され、なんと子供用の足漕ぎ車に乗って一般道をひた走り、万博会場を目指すという事件を起こしたことがあります。 すぐに通報され、背後でパトカーのサイレンが鳴り響き、周囲の車が一斉に止まったあの日の光景は、今でも脳裏に焼き付いています。
子供がそんな無茶をしてしまうほど、当時の日本は理屈抜きの熱気とエネルギーに包まれていました。 しかし、その熱狂的でアナログな情熱の裏側、華やかなパビリオンの地下では、現代のスマートシティの原点とも言える「とてつもない巨大システム」がひっそりと稼働していたのをご存知でしょうか。
インターネットも携帯電話もなかった時代に、わずか半年間で6421万人という大群衆を、大きなパニックもなく安全に捌き切った「奇跡のインフラ」を解剖します。
4万8千人の迷子を救った「巨大な電脳」
万博の期間中、会場には1日平均で約35万人、ピーク時にはなんと83万人もの人々が押し寄せました。当然、毎日膨大な数の「迷子」が発生します。その総数は、半年間で約4万8千人に上りました。
会場の外を足漕ぎ車で走っていた私はお巡りさんに保護されましたが、会場内で泣き叫ぶ何万人もの迷子と親をどうやって引き合わせたのか。 実はこの時、日本電信電話公社(現在のNTT)の協力により、日本で初めて本格的な「コンピュータによるオンライン情報処理システム」が導入されていました。
会場内に複数設置された迷子センターには、当時最新鋭の端末が置かれ、巨大なホストコンピュータと通信回線で結ばれていました。迷子が保護されると、係員が年齢、性別、服装の特徴などをパンチカードやキーボードで即座に入力します。親が別のセンターに駆け込んで特徴を伝えると、コンピュータが瞬時にデータベースを照合し、「そのお子さんなら、第3迷子センターで保護されています」と即答できたのです。 この画期的なシステムにより、迷子のほとんどがその日のうちに無事親元へと帰ることができました。
ゴミが時速60キロで地下を走る「真空パイプ」
83万人が一日中飲み食いをすれば、発生するゴミの量も尋常ではありません。1日数百トンにもなるゴミを、清掃車が会場内を走り回って回収していては、景観を損なうだけでなく大渋滞の原因になります。
そこで万博の設計者たちは、未来の都市インフラとして「空気輸送システム(真空ダストシュート)」を地下に張り巡らせました。
会場の至る所に設置された専用のゴミ箱にゴミが捨てられると、地下に埋められた直径約50センチの巨大なパイプラインを通って、ゴミが一瞬で吸い込まれていきます。強力な送風機によってパイプ内を真空に近い状態にし、ゴミを「時速60キロ」という自動車並みの猛スピードで、会場の端にある処理場まで自動的に集める仕組みです。 来場者は、ゴミ箱がなぜかいつも空っぽであることに気づかず、未来の街を快適に歩き回っていました。
群衆の心理を操る「電光掲示板」
これだけの人数が一箇所に集中すれば、将棋倒しなどの大惨事がいつ起きてもおかしくありません。警察のマンパワーだけでなく、群衆の流れをシステムとしてコントロールする必要がありました。
会場には、各パビリオンの待ち時間や混雑状況をリアルタイムで知らせる「巨大な電光掲示板」が随所に設置されました。これもホストコンピュータと連動しています。 「アメリカ館、待ち時間3時間。ソ連館、待ち時間2時間。〇〇広場は現在空いています」
この情報を絶え間なく発信することで、来場者の心理に働きかけ、無意識のうちに空いているエリアへと人の流れを分散させることに成功しました。
昭和の大人たちが本気で作った「未来」
1970年の大阪万博は、ただ展示物を並べた見本市ではありませんでした。 コンピュータによる情報管理、地下の自動ゴミ収集、そして群衆を安全に導く交通ネットワーク。それは、数十年後の私たちが当たり前に暮らしている「スマートシティ」の設計図そのものでした。
スマホもパソコンもない時代に、これほど巨大で精密なシステムを構想し、見事に運用しきった昭和の技術者たち。 足漕ぎ車でひた走ったあの日の熱狂の足元には、そんな大人たちの緻密な計算と知恵が静かに脈打っていたのです。
3月14日。あの熱狂の開幕日から半世紀以上が過ぎました。 今年の春は、皆様ご自身の懐かしい思い出とともに、当時の日本の底力に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。






