9月16日は「マッチの日」です。この記念日は、1948年に日本の主力輸出品だったマッチの統制令が撤廃されたことを記念して制定されました。かつては、どこの家庭にも必ずあったマッチですが、今ではその姿を見かけることは少なくなりました。
マッチの生産量と知られざる単位「マッチトン」
マッチの生産量は、1970年代をピークに急激に減少しました。ピーク時には年間約2,000億本に達していましたが、その後は右肩下がりが続いています。日本燐寸工業会のデータによると、昭和時代に年間10万マッチトン以上あった国内生産量は、現在では100分の1以下にまで縮小しています。
ところで、「マッチトン」という単位をご存知でしょうか?これは重さの「トン」ではなく、1マッチトンが7,200個のマッチ箱を表す、日本独自に生まれた単位です。これは、かつて海外貿易で使われた取引の慣習が起源となっており、日本のマッチ産業の歴史を物語る興味深い単位です。
マッチの生産量が減った主な要因は、ライターの普及と低価格化、喫煙者の減少、そしてガスコンロの自動着火機能など生活様式の変化です。
しかし、マッチという産業が衰退したからといって、その技術や文化が消えたわけではありません。多くのマッチ製造会社が、ライターやアウトドア用の着火剤、デザイン性を追求した贈答品マッチなど、新しい分野に活路を見出しました。
マッチ産業の中心地
かつて日本のマッチ産業の中心地だったのは、神戸市を中心とする兵庫県南部です。神戸港という国際貿易港が近く、原料となる木材や豊富な水資源にも恵まれていたため、「東洋のマッチ王国」と呼ばれるほど栄えました。
明治時代の神戸は、日本の主要な貿易港として栄えていました。マッチの原料(リン、硫黄など)は海外からの輸入に頼ることが多かったため、港に近いことは生産コストを抑える上で非常に有利でした。
そして、生産されたマッチは、神戸港から世界各地へと輸出されました。特に、当時最大の輸出先であった中国や東南アジアへの輸出が盛んに行われ、1896年(明治29年)には神戸港から輸出された工業製品の中で、マッチが金額ベースで第1位を占めるほどでした。
マッチの製造には、多くの水が必要でした。兵庫県には複数の河川が流れ、豊富な水資源があったことが、工場が集積する上で大きな利点となりました。
また、マッチの製造工程には乾燥が欠かせません。この地域は温暖で晴天が多く、乾燥に適した気候でした。
明治維新後、仕事を失った旧士族や貧しい人々が、低賃金でも働ける場所を求めて都市に流入しました。マッチ製造は、比較的簡単な手作業が多く、特にマッチ箱にラベルを貼る作業などは、内職として多くの女性や高齢者の貴重な収入源となりました。このような豊富な労働力が、マッチ産業の発展を支えました。
さらに、兵庫県にはもともと林業が盛んであったという歴史的背景があります。マッチの軸木となる木材の供給が比較的安定していたことも、この地でマッチ産業が根付いた一因です。
これらの条件が複合的に作用し、兵庫県は日本のマッチ産業の中心地として揺るぎない地位を確立しました。現在、国内のマッチ工場はごくわずかになりましたが、姫路市などでは今もなお、日本のマッチ生産の8割を担っています。
マッチの生産量は減ってしまいましたが、その小さな箱に宿る文化は、形を変えて現代に受け継がれています。忘れられつつあるマッチという道具に想いを馳せながら、私たちの生活を照らす「小さな炎」について考えてみるのも面白いかもしれません。






