2月12日。今日は「レトルトカレーの日」です。 1968年(昭和43年)の今日、大塚食品が世界初の市販レトルトカレー「ボンカレー」を発売しました。
松山容子さんのホーロー看板が懐かしいあの時代、レトルトカレーは「未来の魔法の食品」でした。しかし、半世紀以上が経過した今、この食品は単なる「手抜き」や「非常食」の枠を超え、日本の食卓を支える「インフラ」となっています。
今日は、たった一袋のカレーから見える、日本の経済構造と家族の形の激変について、厚生労働省や総務省のデータを交えて、少し深く掘り下げてみたいと思います。
2017年、歴史が動いた日
かつて、日本の夕食の風景といえば、大きな鍋で野菜と肉を炒め、固形ルーを溶かして作るカレーライスが定番でした。「2日目のカレーが美味い」などと言いながら、家族全員で鍋を囲む。それが昭和・平成の「幸せの象徴」でもありました。
しかし、その常識が覆る日が訪れます。 市場調査会社インテージの調べによると、2017年(平成29年)、ついにレトルトカレーの販売額が、固形ルーの販売額を上回ったのです。
これは単なる好みの変化ではありません。 1990年代後半から続いてきた「固形ルー」の市場縮小と、右肩上がりの「レトルト」市場が交差した、歴史的な転換点(クロスオーバー)でした。 現在、レトルトカレーの市場規模は700億円を突破し、生産量は年間約8億食(日本缶詰びん詰レトルト食品協会調べ)に達しています。 国民全員が、年に6〜7回は必ずレトルトカレーを食べている計算になります。
なぜ、日本人は「手作り」をやめてしまったのでしょうか? その背景には、個人の怠慢などではなく、抗うことのできない「経済的要因」が横たわっています。
データで見る「働いても豊かにならない」10年
最大の要因は、日本経済の停滞に伴う「実質賃金の低下」です。
厚生労働省「毎月勤労統計調査」を基にした、ここ10年間の実質賃金指数の推移を見てみましょう。(2020年を100とした場合の数値です)
【表1:実質賃金の推移(2013年〜2023年)】
- 2013年:108.2(アベノミクス始動期)
- 2014年:105.1(消費増税 5%→8%)
- 2015年:104.1(停滞期)
- 2016年:104.8(微増)
- 2017年:104.6 <★レトルトとルーが逆転>
- 2018年:104.3(微減)
- 2019年:103.3(消費増税 8%→10%)
- 2020年:100.0(コロナ禍)
- 2021年:100.6
- 2022年:99.6(物価上昇開始)
- 2023年:97.1(急激なインフレ)
ご覧の通り、実質賃金は2013年頃をピークに、右肩下がりで落ち続けています。 特にレトルトとルーが逆転した2017年を見てください。 当時はまだ現在のような激しい物価高(インフレ)は起きていませんでしたが、2014年の消費増税以降、賃金が伸び悩み、家計がじわじわと苦しくなっていた時期です。
給料が上がらない中で、生活水準を維持するために日本人が選んだ道。 それは「共働き」でした。 「もっと働く(時間を売る)」ことで、なんとか収入を維持しようとしたのです。
「平均値」に騙されてはいけない
「夫は仕事、妻は家庭」という昭和のモデルは崩壊し、共働きが当たり前になりました。 しかし、ここで注意が必要です。ニュースでよく見る「世帯年収平均800万円」といった数字を信じてはいけません。あれは一部の富裕層が釣り上げた数字です。
実態を見るには「中央値」を見る必要があります。 厚生労働省の国民生活基礎調査などを分析すると、30代〜40代の子育て・現役世代の最も多いボリュームゾーンは、以下のような構成です。
【日本の共働き世帯のリアル(中央値推計)】
- 夫(正社員):年収450万円
- 妻(パート):年収100万円
- 世帯年収:550万円
ここから税金や社会保険料を引くと、手取りは月額で約34万円程度です。 住宅ローン、食費、光熱費、そして子供の教育費。 これらを差し引くと、手元に残るお金はほとんどありません。
「時間をお金で買う(家事代行や外食)」なんて夢のまた夢。 かといって、奥さんはパート仕事と育児でクタクタで、夕食に1時間かける体力も残っていません。
ここで発生するのが、経済学でいう「機会費用」のジレンマです。 カレーをルーから作るには、野菜を剥き、切り、炒め、煮込む。最低でも1時間はかかります。 今の日本の現役世代にとって、この「1時間」はあまりにも高価なコストなのです。
そこで選ばれたのが、レトルトカレーでした。 今は一袋150円〜300円が主流でしょうか。調理時間は3分。 外食(ファミレスで4,000円)をする余裕はないけれど、手作りする時間もない。 そんなギリギリの家計と時間を支えるための、唯一の最適解だったのです。
県民性が証明する「勤勉=レトルト」説
この「共働き(特に妻が働く)が増えるとレトルトが増える」という説を裏付ける、興味深いデータがあります。 総務省「家計調査」による、都道府県庁所在地別のレトルトカレー消費金額ランキング(2020-2022平均)を見てみましょう。
【表3:レトルトカレー消費金額ランキング(上位)】
- 鳥取市(鳥取県):2,159円 <共働き率 全国トップクラス>
- 新潟市(新潟県):2,050円
- 広島市(広島県):1,984円
- 前橋市(群馬県):1,971円
- 金沢市(石川県):1,968円 <共働き率 全国3位>
- 川崎市(神奈川県):1,946円
- 甲府市(山梨県):1,940円
- 福井市(福井県):1,926円 <共働き率 全国1位常連>
(出典:総務省家計調査より)
注目すべきは、1位の鳥取、5位の石川、8位の福井です。 これらは、実は「共働き率」が全国でも常にトップクラスの地域なのです。
つまり、 「真面目に働く県民性」+「共働きがあたりまえ」=「レトルトカレーの消費が多い」 という明確な相関関係が見えてきます。
彼らは手抜きをしているのではありません。 夫婦で懸命に働き、地域経済を支えている家庭ほど、レトルトカレーという「文明の利器」を賢く使い、限られた時間を有効に使っているのです。
家でコトコト煮込む時間は、もう日本のどこにもない
こうしてデータを見ていくと、たった一袋のレトルトカレーから、日本経済の縮図が見えてきます。
実質賃金が伸び悩み、共働きで必死に家計を支える現代の家族。 2017年の「ルーとの逆転」は、日本人が「時間」という資源の枯渇を認めた瞬間でした。
寂しい言い方かもしれませんが、家でコトコト煮込む時間は、もう日本のどこにもないのかもしれません。 しかし、それを悲観する必要はありません。 浮いた57分間で、子供と話したり、少しだけ体を休めたりすることができるのですから。






